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日々是好日人のダベリ

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“卒塔婆小町”観能記!

 11月13日に『翔の会』という武田謳楽会の能楽師3人の会があり観に行きました。わが師の邦弘師が“卒塔婆小町”(そとわこまち)シテ方に出演されました。解説書に寄ると、杖をついた老婆が「身は浮草を誘う水無きこそ悲しかりけれ」と登場し「昔は美しさに奢り、翡翠の髪飾りもたおやかに柳が春風になびく様であった。鶯のさえずる様な声は露を含んだ糸ハギの散り初めたよりも愛らしいとほめられたものだ。それが今は身分の賤しい女にさえ蔑まされ恥をさらしている。月日はめぐり我が身は百歳の姥となってしまった。都は人目が恥ずかしい。もしやあの人ではと気付かれない様に夕闇にまぎれ月とともに出て行こう。」落ちぶれた姿を人に見られるのを恥じて都を出ようとする老女は桂川のほとりで朽ちた木に腰掛けて休みます。そこへ高野山から都を目指す位の高い僧がさしかかり「乞食が腰掛けているのは卒塔婆ではないか。教えさとして除けさせねばと」思った僧は「お前の腰掛けているのは仏の身体を表した卒塔婆であるから退く様に」と老婆に言いますと、老婆はこれは形も崩れ文字も見えない朽木にすぎないと言い返します。僧が深山の朽木でもかっては花の咲いた木でも、朽ちていても卒塔婆には変わりはないと言えば、「自分は賤しい埋もれ木だが心の中には花はあるのだから手向けにならぬはずはない。なぜ卒塔婆が仏の身体なのか説明せよ」とせまります。老婆は、我が身を朽ち果てた卒塔婆にかけて何かを言いたい様子。僧は、卒塔婆の形と功徳を説明します。老婆は、形と心・善と悪・煩悩と菩提・仏と衆生はそれぞれ相反するものでない事を巧みな言葉で語り、逆に僧を説得してしまいます。悟りの深い乞食であると感服して身分の高い人にするように頭を地に着け、三度の礼をしておもむろに名を尋ねる僧に、老女は「出羽の郡司小野吉實の娘、小野小町」と名乗ります。小町と言えば輝くばかりの美貌に月の様な青い眉を引き、美しく粧って歌を詠み、詩を作ったり、優美さで知られた美女でしたが、いつの間にか頭に霜を置き、老い朽ちて零落れたさまとなり人目を恥じる身となったのでした。首にかけた袋には飢えを凌ぐ豆や粟を入れ、破れ蓑・破れ笠では顔を隠すどころか雨露を凌ぐのも出来かねます。涙を払う袂もなく道行く人に物乞いし、貰えなければ狂乱の体で声を荒げます。話すうちに小町は我を忘れて僧に物乞いし「小町の許へ通う」と言い出して老婆はモノに取り憑かれた様子で、中でも執心の深かった深草の少将が、小町に取り憑いて百夜通いの昔を再現します。小町の心を得ようと月を友とし、関守も恐れず袴の裾をからげ烏帽子を風折りにし狩衣の袖でおおって人目を忍んで月の夜・闇夜・雨の夜・風の夜も通い詰め、九十九夜まで通った所で病に倒れ百夜を待たずに亡くなった少将の怨念が小町を狂わすのでした。絶世の美女と言われた小野小町が百歳の老婆となって卒塔婆をめぐる僧とのモノと心の問答あり、恋焦がれた深草少将との怨念に取り憑かれ最後は“ともに悟りの道に入ろうよ”で舞が終わるのですが・・。シテ方は、百歳の老婆で言葉・動きとも気が抜けない。言葉は小さければ聞こえないし大きければ雰囲気が壊れるし動きも足の一歩一歩の動かすのも、かぼそくの中に身体からある種のオーラが滲み出るような、やはり年齢も必要なのかもと思いました。邦弘師からはそのメッセージが素直に感じ取れました。それにしても齢百歳の小町を登場させて、美と醜・モノと心・男と女とのテーマで作者の観阿彌には、人間の中の重い横たわる大きなストーリー性の謡いの構成には感心させられました。
翔の会観世会館 005
前シテ小町
翔の会観世会館 008
後シテ少将
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